地震怖いね

最近、地震が多いです。

被災地の報道映像を見ていると、その被害の凄まじさに、テレビを見ている私も、当たり前に過ごしている自分の日常が、足元から崩されてゆくような恐怖を感じざるを得ません。

被災された方々が、一日でも早く、穏やかな生活をとりもどせる事を心から願うばかりです。

また、欲を言えば、少しでも地震予知の精度が高く、早くなってくれたら良いなと思ってしまいます。

正直、Jアラートって、地震とほぼ同時か早くても5分前くらいに鳴り出すという印象なんですよね。まぁ、こういった開発も、一朝一夕でできる事ではないのでしょうから、実際に開発されてる方からしてみれば、素人の戯言この上ない発言なのでしょうが。

ちなみに、昔の時代も、なんとか地震予知をしようと四苦八苦していたようでして、大正時代の関東大震災後、内務省社会局という部署で、被災地域に伝わる地震前後の異変に関する伝承を収集するという事業が行われたそうです。300例程集まった地震前後の異変は、専門家によって分類される中で、個人の創作と思える物、あからさまに迷信を判断できるものなどを取り除き、国に報告されたそうです。「出典/日本民俗学全集(藤沢衛彦)」

その内、気になる物をいくつか抜粋してみました。

神奈川県

●三又の雲が現れる。

●二重の虹が現れた。

●火柱がたった。

●優曇華(ウドンゲ)の花が咲いた。

●井戸の水が濁り、また、減った。

●太陽が赤かった。

●蛇が沢山はい歩いた。

横浜地方(横浜は神奈川地方にはいらないのかな?)

●位牌が三度倒れた。

●荒神様に上げた水が無くなった。

●二匹の雄雌の馬が海上にたった。

●太陽が赤かった。

●火柱が立った。

横須賀地方

●九月一日の朝、富士山の方から三又の雲が飛んだ。

●渡り鳥が例年よりも早くいなくなった。

橘樹群地方

朝顔が朝咲かずに昼に咲いた。

…まぁ、こんな感じで長々と続くわけなのですが、ぱっと見た所、太陽の見え方が変わるというのと、火柱、それと三又の雲という項目が、地域をまたいで見かけられるような気がします。

これらのデータが、実際にどれだけ地震予知につながるのかどうかという点は分かりませんが、明らかに手間がかかると思しき、その内容を見ていると、関東大震災を経た当時の人々の、「震災の被害を少しでも減らしたい」という強い思いが伝わってくるようで、素直に感心させられます。

腎虚

このところ、疲れやすいんですよ まぁ、原因は分かっているんですよ。 忙しいっていうこともあるんですけれど、ようは歳ですよね、歳 東洋医学では、こういう状態を腎の気が足りていないと考えて「腎虚」と言うそうです。 気には、色々な区別があるそうで、その中でも、老化を司るような気は「腎気」というようです。別名を「先天の気」とかいうもので、生まれた時に両親から貰った量から、増える事はなく、あとは、歳を経ることに削られてゆく一方と捉えるそうです。 そして、「腎虚」の人は、腎の気を無駄遣いしないように、なるべく養生して、ご飯を食べたり、呼吸をして増やせる「後天の気」を使って、「腎の気」を長持ちさせようなんて考え方をしたりするそうです。 まあ、東洋医学の信憑性は別にしても、「腎気」は、増やすことができないなんて言われると、ちょっと、ガクンとしちゃいますよね。 ちなみに、経絡に気が足りなくなっていることを、虚、気がありあまっている状態を、肝が実しているいいますが、腎の経絡だけは、腎虚という言葉はあっても、腎実という言葉はないそうです。 理由は、生まれた頃から、減る一方なので、腎の気が増えるという考え事態がないようです。 それを承知で、なんですが、気持ちだけは、腎実といきたいついこの頃です。 …目指せ、気持ちだけアンチエイジング!

 

麒麟

突然ですが、ここ暫く禁酒しています。

ただ、何処のメーカーとは言いませんが、禁酒前に買った500mlの発泡酒が一本だけ冷蔵庫に入っているんですよね。

私以外の家族は、あまり酒を飲まないので、いっこうに無くならないんですよね。そうは言っても、もともとが貧乏性なんで折角買った物を捨てるのも忍びないんですよね。

だから、冷蔵庫を開けるといるんですよ…、牛乳のお隣に!

だから、冷蔵庫を開けると揺らぐんですよ…、私の決心が!

…まぁ、そんなこんなで、冷蔵庫を覗く度に、目について仕方がないので、今回は、この妖怪の話を書こうかと思います。

正直、妖怪と言っていいのかどうか微妙な所ではありますけどね。

「本草綱目」によれば、麒麟は、瑞獣(めでたきけもの)にて、麕(くじか)の体に牛の尾、馬の蹄を持っている。体は五彩で腹の下は黄色である。高さは1丈2尺、蹄は円く、角は1つである。角の端に肉がある。鳴き声は、鐘呂(楽の音律)と一致し、行動は規範に合致し、遊ぶには必ず地を選び、その場所を熟知した上で、その場所にいる。生きた虫を踏まず、生きた草を踏まず、群居せず、仲間とともに行動することもない。落し穴に落ちる事もなく、網にかかることもない。王者の政治が仁にかなえば、必ず、あらわす。とあります。

また、「和漢三才図絵」には、毛のある動物は360あり、麒麟はその長である。とも書いてあります。

雌を麒と呼び、雄を麟と呼び、麟には角があり、麒には角がなく、雄が鳴く事を遊聖といい、雌が鳴く事を帰和という。その中で、春に鳴く事を扶幼、秋に鳴く事を養綏(ようすい)と呼ぶとの事です。

また、「広博物志」には、青い麟を聳孤(しょうこ)と呼び、赤いのを炎駒、白いのを索冥といい、黒いのを角端、黄色いのを麒りん(麒麟と漢字違いですが、残念ながら我が家の文字パッドに漢字が見つかりませんでした)と呼ぶ。また、中でも黒い麒麟、角端は、日に1万八千里をゆくともあります。(三才図絵)

「五雑組」によれば、鳳凰、麒麟は、交尾せずに生まれ、世に稀であり、王者の兆しとされ、一方、龍は神物ではあるが、常に存在していて、麒麟よりは見る機会があると書いてあります。

この記述で気になったのが、王の政治が仁にかなった時は必ず姿を現すの下りですが、

「なるほど、だから、昔から滅多にお目にかかれないんだ!」と納得してしまいました。

逆にいえば、「こんな動物が出てくるぐらい、仁と政治が合致する事は稀な事だ。いや、もとい、ありえない事なのだ」というような、諦観とも取れるような、アイロニーを感じてしまうのは僕だけでしょうか?

※書物によっては、雄が麒、雌が麟と書いてある書物もあるそうです。どっち、本当なんでしょうね?

鬼舐頭

若い頃の写真を見たりすると、自分の生え際の位置が変わっている事がわかる年代になってまいりました。

三十代くらいの頃は角度やら、光の加減やら髪型がどうとかと、自分なりに言い訳をつけるくらいの事は出来たのですが、最近の額の広がりは我ながら立派すぎて、そんなおためごかしを挟む余裕もございません。

そんな事を考えておりますと、昔はどうだったのかなと思いを馳せる時があります。

今の昔に関わらず、薄毛という物は人を考えさせたようで、昔の妖怪話にもそんな様子が伺い知る事ができる物があります。

世事百談という書物の中にも薄毛に関しての文章があったので、少し抜粋してみました。

「伊沢氏の説に、世に頭髪のなにごとなく脱けて、銭の大きさ、あるひは指のはらばかりにはげたるを、げぢに舐められしというを…」

こんな一文がありますが、この後に続く文章も含め、意訳してみましょう。

「伊沢氏の話では(伊沢さんは誰だか知りませんが)、巷では特に理由もなく銭や指の腹のような形で、頭髪が抜けた時は、『げぢ』になめられたといいます。また、その『げぢ』を『げじげじ』という虫だと思っている人の話もわりと聞きます。でも、ここでちょっと、考えてみて下さい。もしも、本当にこの『げぢ』が『げじげじ』という虫なのならば、「舐める」という言葉を使うのはおかしいんじゃないでしょうか?虫なら「這う」ではないでしょうか?昔から「舐める」という言葉があてられた事には理由がるのではないでしょうか?」

まぁ、こんな風な内容です。

ここから話は海を渡って、遥か中国へと至ります。

中国では、昔から月食の日に沐浴をすると、天狗星(流れ星)の精である下食という鬼がでてきて頭を舐められ、鬼が舐めた後は、その舌の形に毛が抜けるという言い伝えがあり、それを鬼舐頭という病気として捉えていたようです。世事百談の作者山崎美成は、当時(世事百談が編纂されたのは江戸時代中期頃です)巷で言われていた「げじに舐められる」という話は、虫の「げじげじ」ではなく、中国の言い伝えにある下食が訛って、「げじ」になったと主張しています。

彼の論の裏付けとして、大江匡房、一条兼良などの著名人の著作を上げて、鬼舐頭という病気と、下食という鬼の存在を訴えています。

この下食という鬼ですが、何の為にそんな気持ち悪い事をするかというと、その理由は、ずばり「お食事」であり、月食の日に人々の生気を頂いているそうなのです。

ここで思い出して見ると、最初の引用文で毛の抜けた箇所を「銭の大きさ」「指のはら」と表現していました。

そこから考えると、この鬼舐頭の作る薄毛というのは、私のような経年変化の代物というよりも、むしろ、突発的な円形脱毛症のようですね。

円形脱毛症の原因は、諸説ありますが、精神的ストレスも要因の一つとなりうるとも言われています。

そうした要因から円形脱毛症を発症した人を身近に見た場合、昔の人は「鬼に生気を舐められたのだ」と理解してしまったのかもしれません。また、周囲の人だけではなく、本人に対しても、理解できない情緒の不安定さを「鬼に舐められた」と理由をつける事で治療効果のような物を望めたのかもしれません。

少し時代を遡ってみてみましたが、山崎美成の力説、室町時代の国学者一条兼良の文献、平安時代の歌人大江匡房の記述、中国の話と色々な話が出てきました。

経年変化、突発的な物と違いはありますが、大昔の偉い人も文章に残す程、抜け毛を気にしていて、さらに、そういう文章が歴史に残っているという事は、後世の人々が、「抜け毛に関しての文章を捨て置けなかった」とも言え、そんな事を考えながら、現代に生まれた私が、鬼舐頭云々という文章を読んでいる事を考えると、時代は変わっても、人が気にするポイントてのは、そんなに変わらないのだな…などと妙に納得させられてしまいます。

妖怪のイメージ

皆様、妖怪って聞くと、どんなイメージを持ちます?

私は、どちらかというと、唐傘お化けやみたいな、ちょっとユーモラスな姿が頭に浮かびます。

幽霊、怪物、妖怪といった言葉に、全然違う印象を感じる時、僕は、そういったイメージが自分の中で働いているような気がします。

こうした、ユーモラスな妖怪の姿というのは、手繰ってゆくと、ある一人の絵師の作品に辿りつくような気がします。

鳥山石燕画、『画図百鬼夜行』というシリーズ物の浮世絵です。

そうあの京極○彦とか、水木○げるの作品で、散々お目にかかった、あれです。

この鳥山石燕という絵師は、狩野派に師事し、後の弟子の中には喜多川歌麿なんていう大御所までいるようなお方です。

安永五年(1776年)に完成されたこのシリーズの中には、百四十種もの妖怪画が描かれ、さらに、その後、鳥山石燕自身が書き足した物まで含めると、二百種類を越える妖怪画が描かれた事になります。

本当に、好きじゃなきゃやれない仕事と言えるでしょう。

鳥山石燕をはじめとして、多くの方々が書いた妖怪画を、その後の浮世絵師なんかが書き写したり、明治に入って柳田国男先生が地方の妖怪話を発掘して数を増やしたり、現代の漫画家さんが妖怪画を引用したり、たまにアレンジなんかも加えたりと、そんな紆余曲折を経ながら、自分の頭の中に、妖怪のイメージが植え付けられたのだなと考えると、妙に感慨深く思えてしまうついこのごろです。

 

招き猫

私の実家には、招き猫があります。

それこそ、付き合いとしては、中学生の頃から保持していたので、それこそ付き合いは三十年近くになります。

こんな話をすると、よっぽど、猫がすきなのだと思われそうですが、そういう訳でもありません。

勿論、猫は好きなのですが、それとは別枠で、この招き猫が好きなのです。

ちょっと、小太り二十顎。瀬戸物の肌に、三毛の柄、他の招き猫が、高々と片腕を上げている中で、なんとも気だるそうに(あくまで私の主観ですが)、軽く左手首を曲げているとしか見えない、可愛いやつです。

未だに奴との付き合いは続いています。

それで、奴の左手なんですけど、おそらく、奴が生まれてから、このん十年、ずっと挙げっぱなしなんですよ。

当たり前といえば、当たり前なんですけど、少し気になって、調べてみた事があるんです。

なんでも、招き猫には、大別して「右手上げ」「左手上げ」と種類があって、それぞれ意味が分かれているらしいんですよね。

もしかしたら、知っている人もいるかもしれませんけど、書いてみます。

まあ、一番大きなわけ方では、「右手」が「左手」かという事なんですが、

「左」=招客(人を呼ぶ)

「右」=招福(金を呼ぶ)

という事になり、一般的には、左手を挙げているモノを、商店や飲食店では飾り、家庭などには右手を挙げている猫を置くようになっているようです。

京都の称念寺というお寺などは、招き猫で有名な場所で、金色のモノが金運、白が福、黒には病気を防ぐ力があるとされ、夫々のご利益によって色分けされている。

ちなみに、この称念寺は、今ではペットを供養するペット寺としても有名だそうです。

さらに、招き猫の由来に関しても、諸説があるようで、

中でも有名なのが、東京都世田谷区豪徳寺の話です。

ある日、彦根藩主 井伊直孝が寺の門前で手招きする猫を見つけ、近寄って寺の中に入ってみると、直孝のいた門前に雷が落ち、猫のお陰で命拾いしたという話だそうです。

その話と関係あるかどうかは、分かりませんが、豪徳寺には今でも猫塚があるそうです。

他には、両国の女郎屋「金猫銀猫」が最初に飾っただとか、吉原の薄雪太夫という花魁の飼猫をモデルとしたという話から、養蚕農家が鼠避けのげん担ぎで猫の置物を飾り始めたという説まであります。

本当に誰かどういう経緯で始めたのかしれないけど、よくもまあ、長い間続くもんですよね。

ちなみに、うちの実家の招き猫、後頭部に小銭を入れる穴があって、貯金箱になっているんですけど、金を出す場所が見当たらないんです。

造る人がつけ忘れたのかどうか、それともわざとなのかは分かりませんけど、これって…割らなきゃ、中身取り出せないって事ですよね。…絶対、出来ませんてば…それだけは。

古代の妖怪発生

「妖怪」という言葉そのものが使われたのは、日本の書物では「続日本紀」(西暦722年成立)が最初で、中国の漢語にあった「妖怪」という言葉が受け入れられ、広まるようになったそうです。(この辺はWikipedia調べ)

ただ、「妖怪」という言葉に拘らなければ、怪しげな物、不可解な物を記した記述は、700年代に成立した書物には多く見られるような気がします。

その中でも、特に有名な物が日本書紀(成立720年成立)や、古事記(西暦712年成立)などでしょう。

ニニギノミコトが天孫降臨する下りで、当時の葦原中国を表現する一説で「復有草木咸能言語」と書かれております。これなんかは、読んで字の如くで、草も木も物を喋っていたと書いてあります。私なんかは、素直に「妖怪の発生だ」と喜んでしまいます。

さらに、時を遡ってみますと、イザナギとイザナミが出会った時に、女性の方が先に歓喜の声を上げた為、骨もなく三歳になっても歩く事が出来ない子供が産まれたとあります。

これが有名な蛭子という事になります。

そして、そこから陰陽の理に違反する事が妖怪の発生原因とも捉えられるようになったとも書かれています。

さらに、イザナミを探し求めたイザナギが黄泉津平坂を訪れた時、その帰りに醜女に襲われた記述にも、醜女以外にも妖怪らしきものが現れます。

イザナギがイザナミの死体を目にした時、イザナミの体を醜女とともに「八色(やくさ)の雷」と言われる神たちが取り囲んでいたと記された記述です。

余談ですが、これらの記述は血液の凝固による静脈の浮き上がりや、腐敗ガスによる肉割れ、皮膚の破損といった人体の腐敗現象を神として擬人化したという捉え方もあるようです。私としては、上記の捉え方がしっくりくるような気はします。

話が少し脱線しましたが、私は醜女も八色の雷も妖怪の原型の一つとして捉えています。

また、彼等に対してイザナギが桃の実を投げている所から(その後も、桃の実は鬼を祓う、神聖な食べ物の一つとして扱われている)、日本における「鬼」の原型なのかもしれません。

さらに、今度は時代が下り、天照大神が天岩戸に隠れた時の話になると、日輪が消え去り、世界が闇に閉ざされ、群妖、万妖が地に満ちたと記されています。

主に、以上にいくつかのポイントが神代を記した記録に見る、妖怪の起源といえるのではないかと、私は思っております。

①自然物(自然由来:喋る草木)

②陰陽の理を違える事で生まれてしまった。歪んだ生き物。(反自然由来:蛭子)

③死と生を分ける事で生まれた者、生きている者とは違う世界の住人(死後の世界由来:醜女、八色の雷、その後、鬼へ発展)

④天照大神が身を隠す事で生まれてしまった者たち(支配者由来:群妖、万妖)

①は、人間の存在以前に先立つモノ。むしろ、山や海といった自然と地続きの現象、アニミズム的な信仰対象と捉えられるかもしれませんね。

また、②は、陰陽の理を違えるという理由がはっきりしているので、人間がやらかしてしまった過ちというか、とにかく守るべき「理」があって、そこから逸脱した事で起こった歪みのようなモノと言えるかもしれません。

そして、③は、死を意識する事で生まれた、日常とは違う世界の住人。

最後の④に関しては、天照大神(支配階級)が姿を消したこ事による、社会への影響(治安の悪化など)、もしくは、派閥抗争の敗者の出現とも捉える事もできます。

こうやって見て見ると、「妖怪」という言葉が日本で浸透する以前から、社会の発達の過程の中で生じた違和感や不安を形にする言葉を、古代人は探していたのかもしれません。

それは、不安に何かしらの形を与えることで、不安と恐怖に取り巻かれた古代社会の中で、少しでも穏やかな一日を送ろうとした「古代人の知恵」のような物なのかもしれません。

きっと、当時、中国から伝わって間もない「妖怪」という言葉は、彼らの心の琴線を、著しく刺激した事でしょう。

以前、橋について書いたん事がありましたが、なんだか書き足りなかったので、再度、橋について書いてみようと思います。

橋っていうのは、元もとの意味としては、端から来ているみたいですね。

わりと村の端っこ、地域の境目にかけてある事が多いから、端と端を渡す、端渡し、橋。

なんて風に変わったのかもしれませんね。

一方、少し似たような考え方で、降魔が辻なんて考え方もありますよね。ほら、川を船を使った通路、魚の通り道と、そこに交差している橋を含めれば、立体的な辻と言えますからね。

そんな事を考えると、二つの道が交差する場所ってのは、なにか人知では計り知れない物が現れるような場所と思われていたのかもしれません。

そんなこんなで、色々なイマジネーションが入り混じる橋ですが、逸話もいくつかございます。

例えば、本所の幽霊橋。

これなんかは、以前に紹介した姿不見の橋と似たような物で、昔、その橋で座頭(目の見えない坊主ね)が殺されて、その幽霊が明け方になると、橋の向こう側に渡り、こちらに戻ってくる音だけが聞こえてくるという物。

「タダガタガタト下駄ノ音ヲナセリ、故二カノ幽霊ナリト言エリ、ヨッテ人々恐怖シテコノ橋ヲ幽霊橋ト名付クヨシナリ」と「陰陽外伝磐戸開」という書物に書いてあります。

と言っても、その後にも文章があって、橋普請の時の木材の歪で出た音を近隣の臆病者が、勝手に解釈したのだと、幽霊話を打ち消してはいるのですが。まあ、当時、橋には、そんな話を蔓延させる物を感じていたという事にはなるのではないでしょうか。

あと「源平盛衰記」なんかでも、中宮の出産の際、乳母である二位殿が、戻り橋の東側で車を停めて、その場で辻占いをしたり、祈祷した末、死んだ父親が蘇った話とか(浄蔵貴所が、父、三善清行を祈祷で蘇らせた事から戻り橋と名付けられたらしい)

とにかく、橋といえば、何か違う世界のモノが行き来するようなイメージを膨らませた人は、昔から多かったみたいですね。

考えてみれば、日本人は農耕民族。

水路の源になる川は、まさに、生活の要。

その生活の要である川と、境界線と境界線を繋ぐ、自然にはある筈の無い道(橋)が立体的に交差する場所という事になるのですから、ぶっちゃけ、そりゃあ、普通の場所である筈がありませんよね。

先日、橋について書かせていただきましたので、今日は「辻」について書いてみようかなと思います。

妖怪話や言い伝えなんかを見ていると、色んな物を巻き込む場所だというような理解をされていたような気がします。

考えてみれば、色々な物が行き交い、人が出入りするのが道なら、その道が二つ交差しているっていう形状に集中して見てみれば、「入り口が多数ある広場」とも受け取れなくもないですね。

…で、面白いのが、結構、葬式に辻を使っている地方が多い事です。

「墓、もしくは、村の辻にお線香を立てておくと、その煙にのってご先祖様がやってくる」とか、「お盆の時は、辻を中心に踊る」なんて風習がある所もあります。

葬式ってのは、まあ、割合的には年寄りの方から先っていうか、何事もなく順番通りにゆけば当事者の多くは、年寄りなるもんで、当事者達の希望を反映させようとすると、出来る限り古い風習を残そうとする意見が強いのかもしれません。

また、若者も、余命いくばくもない相手の希望を、そう「無下に断る事もないっ」という背景もあって、必然的に昔の日本の風習やら、物の考え方を、現代へと色濃く残すモデルとなるのかもしれません。

そんなこんなの理由からか、民俗学なんかでもこの分野のフィールドワークを重点的に行う方は多い気がします。

辻の葬式話をいくつか上げてみますと、神奈川県の一部では、今も残っているのか、よく知らないですけど、葬式があると村の辻に、白い紙のついた竹の串を突き刺すなんて風習があったそうです。

時代劇なんかで棺おけの死体の頭につけられている三角の白い紙。あれが、串についているって事みたいなんですよね。

何でも、考え方としては、墓場から戻ってきて、そのまま家に来られて祟られても困るから、とりあえずここでたむろしていて下さいっていう目印に使っていたみたいですね。

言い方を変えれば、お体を無くされた方が、そこから外に出てゆけないよう閉じ込めて、鍵を閉めちゃったって事になるんでしょうね。

さらに、沖縄県にも「石敢当」という魔除けが辻辻に置かれていると聞きます。

「石敢当」では、この辻を通る通行人から向って正面に置石をおくんですが、さらに、辻を曲がってから最初に目に入る場所にも置かれます。少し、しつこい気もしますが、逆に、そこまで、しつこく置くという事は、辻毎に身体を持たない方々が襲ってくるとでも思ったのかと想像してしまいます。当時の人が、辻と妖しい物の関係を余程、怖がっていたんだろうなと思わせられる話です。

ただ、これらの話を読んでいると、意味としては畏怖の気持ちも充分伝わるんですけど、何故か、軽い遊び心みたいな物も匂ってくるんですよね。

小学生の頃、「この空き缶を家まで蹴れなかったら死んじゃう」とか「柳の木の前で息をしたら死んじゃう」とか言って、河原の土手で柳の並木道に出くわして、顔面蒼白となった…。

そう、あの、「自分掟」もしくは「俺等ルール」という子供の習性です。

だから、もしかしたら、お葬式の風習を変えなかった爺さん達が、死ぬ間際に残したかった物って、古い風習じゃなくて、子供の頃のそんな思い出っていうか、恐怖の雑ざった遊び心みたいな物…。

なんて事を考えても悪くないですよ…ねぇ?

新宿 淀橋

前回、江戸の七不思議について書いたので、今回も東京の妖怪系史跡について書こうと思います。(誠に勝手ながら、私、妖怪系史跡を妖跡(あやせき)と名付けております)

新宿に淀橋という地名が残っています。

それ以前の名前は、姿不見の橋というそうでして、それを将軍様(家光説、吉宗説あり)不吉だからとか、橋から見た水が淀んでいたというような理由で淀橋に変えたというような事が言われています。

話を「姿不見の橋」に戻しますと、将軍様も変えたくなるような、なんとも不吉な名前ではありますが、その名前の由来を調べてみますと、言い伝えでは、昔、中野長者と呼ばれた大金持ちがいて、橋の向こうに下男をつれていって、宝を埋めて帰ったが、下男が秘密をばらすのを恐れ、橋の袂で下男を殺してしまい、それ以来、宝を埋めては、人を埋めてを繰り返すようになった中野長者。

二人で橋を渡ったのに、橋を渡った下男の姿だけは見られない。

そんな所から姿不見の橋という訳なのだそうです。

名前に負けず劣らず、その由来も不吉で物騒な姿不見の橋ですね。

さて、この極悪非道な心配性中野長者ですが、因果応報世のならいとはよく言ったもので、月日が経ち、中野長者の一人娘が婚礼の為、この姿不見の橋を渡った時、大蛇につれてかれてしまい、中野長者と娘は二度と会う事が出来なくなってしまいました。中野長者は、自分の行いを反省して、出家しましたとさ。

簡単に言えば、こんな顛末らしいです。

宝を埋める度に従業員を殺して埋めるような人が、このくらいで反省するのだろうかという、ささやかな疑問を抱いてしまう、自分の性格の悪さも一種のホラーだな…などと思ってしまうついこの頃です。