通り魔

私、妖怪話とか大好きなんですよね。

「いい歳して何が妖怪だ!」

そんな事を子供の頃から言われ続けて幾年月、結局、未だに妖怪は好きですね。

今回のタイトルの「通り魔」「通り悪魔」も大好きな話でして、それ程、珍しいお話というわけではないのですが、ついつい書いてしまいました。

この「通り魔・通り悪魔」という言葉は、最近の言葉というわけではなくて、江戸時代頃にも使われていたようでして、実際、今で言う無差別衝動殺人、「通り魔」は江戸時代にも多かったらしいですね。呼び名も、当時から「通り悪魔」「通り魔」という呼び名が混在して使われていたようです。

世事百談という書物の一節には、こんな風に通り魔を記述している部分があります。

「しかれども、男女に限らず何事なきに、ふと狂気して人をも殺し、我も自害などすることあり。そは常々心のとり納めよろしからざる人の、我と破れをとるに至るなり」

ようは、人を殺して、最期に自害してしまうような事件は、常日頃の心の在り方が、破滅を招いた大きな要因となっているのだという事が言いたいようです。論調に若干の自己責任風な匂いは感じますが、まぁ、この場合はものが凶悪犯罪ですし、江戸時代の本ですし、個人的にはこうゆうものだろうなという感想です。

さて、それでは「ふと狂気して」とは具体的には、どういう意味なのでしょうか。

同著の記述によれば、「何となき怪しき物、目に遮ることありて、それに驚き、魂を奪われ、思わず心の乱れるなり、俗に通り魔に会うという、これなり」ともあります。

日常の心の動きを妨害する「何者か」そういう捉え方だったのでしょうね。(昔の人の、感受性って素敵ですね)。

だから、通り魔というのは、厳密に言えば人殺しの事じゃなくて、人殺しが人を殺す前に逢った、「魔」の事を指すようです。

そんでもって、その魔がどんな格好をしているかというと、

「白髪の老人、腰はふたへにかがまりて杖にすがり、よろぼいつつ笑いながら、こなたに来るやうすただならぬ顔色にて、そのあやしさいはんかたなし」

分かりやすく書くと、白髪で腰が深く曲がっていて、すがりつくように杖を掴み、覚束ない足で笑いながら近づいてくる、その不気味さは言葉では言い表せられない…。

とまあ、こんなお爺さんにあってから、記憶が無くなっていて、気がつくと人を殺していたというような塩梅のようですね。

正直、おっかない話です。おっかなすぎてゾクゾクを通り越して、ムラムラしてしまいます。

ちなみに、そんなお爺さんに逢った時の対処法もありまして、目を瞑り、これは心の乱れなのだと、自分に言い聞かせて気持ちを落ち着ける事なのだそうです。

この時、落ち着く前に相手に気持ちが奪われちゃうと、「太陽が眩しかったから…」みたいな殺人をしちゃいますよってな事なんでしょうね。

現代で、この「通り悪魔」が法的に認められたら、かなりの数、刑を免れる人が出てきそうですね。まさに、無法地帯です。

人を殺傷する犯罪が正当化されたり、興味本位に扱われたりする事は絶対にあってはならないというのは重々承知の上で言わせていただければ、「自我となんだか分からない物の境目で起こる事件」という筋立ては、シンプルな不気味さもさる事ながら、自分という存在に対する不信感へのくすぐり加減も実に絶妙。

イマジネーションの世界として見れば、やはり魅力を感じてしまいます。

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